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「マイゴッドマザー」
こんにちは、久しぶりのmasakoです。
長い間ご無沙汰だったのでお伝えしたいことはたくさんありますが、先日、
とある人と私の母(実母)の話で盛り上がり結構うちの母って面白い人やなあと
改めて感じたので今回は母の話をしたいです。
のほほん日記の主旨とはずれるかもしれないけど「ママ」という共通キーワード
ということで許していただきたいです。
前置き:母は恩年 72 歳、バリバリの昭和ヒトケタ生まれです。
そして 3 回の結婚を経験してます。
これからのお話は決して橋田寿○子ばりの根性話ではないのでさらっと読み流してください。
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「母の青春」
九州は長崎に生を受けた母は青春時代は花嫁修業と称して洋裁学校へ通っていた。
実家はクリーニング屋だったので店の手伝いをしながら…。しかしやんちゃな母は
当時のダンスホールなるものにあしげく通い、映画三昧の日々だった。
そして 27 歳で 4 歳年下の男性(私の兄の父)と最初の結婚。これは出来婚だったらしい。
年下で少し頼りない夫は貯金はゼロ!その代わり借金がある始末。気丈な母は、
なけなし自分のお金で家財道具購入や式の準備をしたらしい。
そして無事長男出産。(私の兄)
狭いながらも楽しい我が家で兄は一歳の誕生日を迎え穏やかな日々を送っていた矢先、
夫の訃報を受ける。職場の事故で夫は重症との知らせ。
一歳の兄を抱きしめながら病院へ向かうタクシーの中で母は覚悟をきめていたらしい。
「たぶん助からない、この子と二人で生きていこう。」と。
「母の決心」
夫はやはり助からなかった。
そしてその一ヵ月後には実母が病気で他界。二人の大切な人を見送った。
夫は職場の事故で亡くなったため多額のお金が舞い込んできた。
深い悲しみの代償と言えばそれまでだがお金なんてむなしいと感じたそうだ。
しかもそのお金は嫌なことばかりを呼び寄せた。まず夫の兄が
「長男を引き取ってやるから金をよこせ」と言ってきた。
もちろん子供を手放す気などない母は断る。
そして母の友人が「今とてもお金に困ってるから貸して欲しい」と借金を申し入れてきた。
勝気だがこういうことは断れない母はすんなり友人にお金を貸してしまった。
そして数ヶ月、、、友人が姿を消した。逃げられたのだった。
わずかな蓄えしかのこっていない母は仕事がない長崎をあとに
新天地、大阪へでることを決意する。
「 2 度目の結婚」
大阪の工場で数年働いていた母は、はしかになった兄を預ける先もなく、
仕事も休めず仕方なく果物などを枕元に置き、外から鍵をかけて
5 歳の兄をひとりで留守番させるような生活を送っていた。そして二度目の結婚をする。
これまた 3 歳年下の男性(私の父)だった。
またまた少し頼りない男性だったらしい。
出会ったきっかけなどは聞いたことがないのでよく知らない。
二度目の夫の仕事がぱっとしないので
知り合いが居る姫路へ引越しそこで職を見つけたらしい。そして私が母のお腹に宿る。が!
それなのに母は妊娠中に二度目の夫と離婚。何が原因だったかこれまた聞いたことがない。
聞くタイミングを逸してしまった。おいおい機嫌のいいときに聞きたいと思っている。
正直、私をおろそうと手術の日まで決めていたが当日やっぱり可哀想、
子供二人くらい育てていけるさと思って出産を決意。母 34 歳。
あくる年の 1 月 7 日土曜日の夕方、私が生まれる。
体重 2600 グラムの可愛い女の子だったかどうかは知らないが…。
この日から母の働け働けの日々が始まるのだった。
「クリママ誕生」
出産まもなくから母は給料のいい水商売に入る。当時でいう「夜の蝶」ってやつ。
兄は小学生だったが夜も一人で家で留守番、私は隣の家に預けられていた。
夜の商売だけでもなんとかやっていけたはずなのに子供に十分な事をしてやりたかった母は
なんとドレスのデザインをして同じお店のホステス仲間から注文をとってきては
昼間はミシンを踏むオーダーメイドの商売を始めた。
生地を持ち込まれては工賃分しか稼げないので自分で極上の生地を探し、
生地にも利益をのっけるという商魂のたくましさ!!
これって今の私の原点?クリママの先駆者?二足のわらじ状態の母。
「信子さんのドレスは着やすくて、仕立てもしっかり、デザインも素敵。」と評判になった。
こうして古いアパートには似つかわしくない綺麗で華やかなお姉さん達が
出入りするようになった。
姉後肌の母は時々縫い物の手を止めてお姉さんたちの相談にものってたみたいで
小さい小さい我が家は人が絶えることがなかった。
さらに時間を見つけては余った布で私の洋服を縫ってくれた。
またさらに余った布は私がお人形の服を作った。
貧乏だったのに着るものだけは「いいとこの子」だった。
そしてそんなに忙しかったのに、食卓にはインスタントや出来合いのものが
並んだことはなかった。
まだ食の産業が充実してない時代のせいでもあったかもしれないが。
それにどこで勉強してくるのか当時としてはかなりモダンなメニューにも挑戦してくれて
食卓も豊かな毎日だった。
母は忙しかったので、正直いっぱい抱っこしてもらったとかいっぱいかまってもらった
記憶はない。
だけど家は「着るもの」と「食べ物」そして母の働く背中で愛情も教育も感性の向上も
まかなわれていたような気がする。
「勉強しなさい」とか「立派な人になりなさい。」とか一度も言われたことはない。
そうこうしているうちに 3 人目の夫となる人と知りあうのだが…。
「またまた大変」
私が 4 歳くらいの時に母は現在の夫と知り合う。お店にお客として来たらしい。
外国航路(何だかさっきから言葉が古臭いなあ)の船に乗っていた現・父は
全くの下戸なのに仲間に誘われて飲みにきていた。その夜、
船の門限に遅れた父は泊まるところがないと途方にくれた。
当時下っ端だった父は門限をかいくぐって船に帰る術を知らなかった。
そこで母が「じゃあ家にくる?小さい子供が二人いるけどね」と言った。
これって山田詠美の小説ようではないか! こうして父と母の腐れ縁は始まった。
父は休暇のたびに家に帰ってくるようになった。私もいつのまにか「お父さん」と呼んでいた。
いやでも結婚の二文字が浮かび上がる。しかし母はバツ 2 、二人の子持ち、
おまけに父より 8 歳年上。お姑さんは大事な長男をそんな女に!とばかり猛反対。
「じゃあ別れるしかないね」と母は姉ご肌の強がりで言い放ったのだが、
父は別れるくらいだったら死んだほうがましだあああ!と睡眠薬をもって家出。
今思いだすと吹きだして笑い転げそうな話…。 その騒動の中、
母は父からもらっていた生活費を使わずにいつか別れる日のためにと貯金をしていたらしく
別れ話の途中にその使わなかった生活費を返したそうだ。
温厚な父も別れ話がこの現金の出現で本物だと知り、パニック&激怒。
なーんと当時の50万円也を破り捨てた。しかし悲しいかなそこは小市民、
あとで手分けして貼り合わせて銀行に「これ、新札に換えてもらえますか?」
と言った落ちがある。
「三度目の結婚の行方」
時代はぐーんと進んで、母 54 歳の時、父と無事入籍。新築で家も建てた。
母にやっと平穏な日々が訪れようとしていた。
(ここに至るまで我が家には実に様々ないざこざが起こったのは言うまでもない。)
が!またまたその矢先。父の船会社が倒産。
船にしかのったことのない父は出世はしていたものの船を離れれば
陸にあがった河童状態(ごめんよ父ちゃん)なんのつてもない。
ローンも組んだばかりだ。しかたなく母がまた動きだす。父の次の就職先が見つかるまで
母は引っ越したばかりの新興住宅地で若い奥さんを集めて洋裁教室を始めた。
母の周りは不思議と人が集まった。さすがにそんなに収入には繋がらなかったが
不安を払拭するように若い奥さん達に笑顔で接していた。
私はファッションデザイナー、兄は建築デザイン、二人とも働いていたけどまだ下積みで
まったく当てにならない子供たちだった。そんな大変なさなかでも好きなことをさせてもらった。
「母の青春再び」
そんなこんなで 4 年が経ち生活も落ち着き始めた頃母は 60 歳、還暦を迎えた。
小さなパーティーは家族と友人とほのぼのとやった。花や緑が大好きで
枯れた鉢でも見事に蘇らせる母。一度でいいから両手に抱えきれないくらいの
花束をプレゼントされたいと言ってた母の願いを叶えてあげた。
そして還暦のお祝いにと、生涯最初で最後と言いつつ母はじめての海外旅行へ!
私と二人でイタリアへ行った。
す・る・と完璧に母は海外にハマリ、 60 歳から現在 72 歳に至るまで毎年 2 回の
海外旅行を慣行している。向こうのレストランでピアノ演奏されてたりすると
食事中の現地のイケメンをさそって昔ならしたダンスに興じているらしい。たはあ〜。
父は 60 歳も半ばだが今でも現役で船に乗って世界中を飛び回っている。
そしてそして、お父さんは仕事やっちゅうのに!「父さんに負けられへん」と
旅行の計画を悪びれもなく立てる母。パンフレットの見過ぎで疲れてコタツで寝ている。
私は林芙美子の「放浪記」の最後の一節を思い出す。
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